「塩原温泉発祥の原点」と言われる『塩の湯』は、明治期の面影を今も残す百段下の露 天風呂「河岸の湯」に代表されるように、古くから親しまれてきた湯治場です。 鹿股川沿いのこの露天風呂は、かつて公共浴場として利用されていた時期もあります。 人気の秘密は、湯治(とうじ=病気を治すために温泉に入ること)に最適な温泉だった からでありましょう。高い泉温(源泉60℃)と、塩分濃度の高い食塩泉が、厳寒期の露天 風呂入浴も可能にしてくれます。 からだを芯から温め、湯冷めしにくいのが「塩の湯」の特長の一つで、からだは一晩中 ぽかぽかと温かく、ぐっすりと休むことができます。 そのようなわけで、塩の湯『柏屋』には、多くの文人墨客も湯治客として訪れています。 このページでは、文献など記録が残るかたがたの幾人かについて、少々ふれさせていただ きたいと存じます。 ================= 『柏屋』を訪れた文人墨客 =================
屋』に残されています。描いた場所は、ちょうど現在の「雷霆の湯」手前付近から、左右 を巨岩にはさまれた鹿股川上流の景色です。 絵には「エレオノーラ・ラグーザ・清原 玉」というサインが。絵の日付は「9.6.1934」 (昭和9年)。 「ラグーザ・玉」は、明治・大正・昭和期の女流画家で、なかでも日本女流洋画家第一 号となった人です。また、モルガン・お雪、クーデンホーフ・光子と並び称される、明治 の社会史をいろどった三大国際ロマンスのヒロインでもありました。 夫のヴィンツェンツォ・ラグーザ(1841‐1927)教授は、日本に最初に洋風彫刻を伝え てくれた人物です。 夫ラグーザの故郷イタリアでおもに活躍し、夫の死後は外国人と結婚したという理由で 日本には帰れず、怒りと失望で日本語は完全に忘れてしまっていたといいます。 昭和9年、新聞紙上に『ラグーザ・お玉』(木村毅著)の連載が開始され、祖国を離れ 半世紀を過ぎてから、ようやく日本でもこの女流画家の存在が知られるようになりました。 小説のヒロインとなってようやく帰国した晩年は、時間を惜しむように絵を描きつづけ ました。 加地悦子氏の年譜には、昭和9年(1934)の項に、≪夏から秋にかけては箱根、富士五湖 日光方面にスケッチ旅行する。≫とあります。日光方面の取材の時に、塩原まで足を伸ばし たのでしょうか。 ときにラグーザ・玉73歳。ナポリより帰国の途についた翌年の作品にあたります。
ラグーザ・玉が『柏屋』を訪れた前年(昭和8年9月)には、「智恵子抄」でよく知られ る詩人・彫刻家の高村光太郎、妻智恵子のふたりが泊まっています。 連名の母に宛てた絵葉書(小太郎ケ淵の写真)には、「(塩原塩ノ湯柏屋にて)帰りか けに塩原へよりました智恵」とあります。 この東北旅行最後の旅程であった塩原温泉には、10日以上も滞在。しかも塩原温泉は、 ふたりが旅した最後の地となりました。≪九月中旬帰郷したが、病状は出発の時より悪化 していた≫(北川太一氏の年譜より)。 翌年の昭和9年5月再び悪化し、母たちが移り住んでいた千葉県九十九里海岸の別荘に転 地療養。しかし、12月状態が悪化し、アトリエに戻るものの、翌年1月自宅療養が危険に。 その翌2月、品川のゼームス坂病院に入院、治療を受けることになります。 その3年後、昭和13年10月その病院の一室で、光太郎に看とられながら生涯を閉じます。 数々の紙絵作品を智恵子は残して。 遺作となった切抜絵は千数百点。智恵子53歳でした。 館に出入りの写真屋が撮ったものです。その場所は今も残っています。 柏屋から5分ほど奥へ入ったところの左側に、隠れるようにして渓流のほうへ伸びる小さ な道があります。 かつてふたりが歩いた道は、今もひっそりと、ふたりの思い出をそのまま残しているよ うです。 (このホームページの<貸し切り露天風呂ガイド>のリンクページ「鹿股川(貝石沢)に ついて」をご覧ください。) 光太郎略歴:(1883〜1956)詩人・彫刻家。東京生まれ。光雲の子。東京美術学校卒後、 アメリカ・フランスに留学してロダンに傾倒。帰国後、「スバル」同人、耽美的な詩風か ら理想主義に転じ、「道程」で生命感と倫理的意志のあふれた格調の高い口語自由詩を完 成。ほかに「智恵子抄」「典型」「ロダンの言葉」など。 彫刻に「手」など。なお、妻智恵子も画家として知られる。 参考文献 『ラグーザ・玉 女流洋画家第一号の生涯』加地悦子著(NHKブックスカラー版) 『アルバム 高村智恵子 ─その愛と美の軌跡─ 』編集=北川太一 写真=高村規 AD=根 本豊徳(二本松市教育委員会)『クーデンホーフ光子伝』木村毅著(鹿島出版会) *文中敬称略 |