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塩原は戊辰戦争でほとんどを焼失
塩原十一湯の一つである「塩の湯」温泉は、塩釜から鹿股(かのまた)川をさかのぼった谷間に湧く温泉です。 塩の湯の開湯の歴史には諸説あるようですが、塩原は戊辰(ぼしん)戦争※でほとんどが焼かれてしまいましたので、歴史的資料は残っていないのです。よって、それ以前の歴史については実際のところ、確かなことはよくわからないのが実情のようです。 塩原温泉の発展は塩原街道開通以後 「塩原」温泉が、史料の面からも近代に登場してくるのは、明治17年(1884年)の塩原街道の開通以後、ではないでしょうか。(土木県令≠ニ呼ばれた三島通庸(みちつね)が栃木県令として着任し、塩原街道を開削) 塩原の発展は、その後、明治18年(1885年)の東北本線大宮―宇都宮間開通を受け、2年後の明治20年(1887年)宇都宮―白河間鉄道開通、尾崎紅葉の「金色夜叉」(明治30年=1897)、奥蘭田の「塩渓紀勝」などによるようです。 賑わいを見せた往時の塩の湯 塩の湯には、明治時代から続く露天風呂が今も鹿股川の渓流沿いにありますが、明治・大正の頃には、温泉旅館が三軒(現在二軒)あり、湯治客でたいへんな賑わいをみせていたと言います。その繁盛ぶりは、塩原温泉にやってくる客の三分の一は塩の湯に来る客、と言われるほどであったようです。 ──当時塩原温泉≠ニいえば塩の湯≠セったんですね。「塩原温泉発祥の原点」塩の湯、と形容される原形がここにあります。 ラ・グーザ玉、高村光太郎・智恵子・・ 往時の柏屋には、多くの文人墨客が静養・保養にやってきていたようですが、残念ながら史料が残っておりません。当時の写真などが残っているのは、イタリアでおもに活躍した日本女流洋画家第一号となったラ・グーザ玉、詩人・彫刻家の高村光太郎、智恵子夫妻。また新派の女優、水谷八重子(初代)さんもおいでになっています。 戦時中は、学童疎開地 ![]() 戦時中の塩の湯は、学童疎開地となりました。各旅館が、それぞれの学童を受け入 れました。柏屋では「高輪台国民学校」の学童が疎開しました。(川岸の湯へ下りる途中の階段の右横に、今も「階段掃除擔當高輪臺國民学校」の札(=写真=)が掛かっています。) 塩の湯の歴史は、今後も研究していきたいと考えます。何かあらたに資料などが見つかったときには、加筆したいと思います。 ※戊辰戦争=1868年(慶応4、明治1、戊辰の年)から翌年まで行なわ れた新政府軍と旧幕府側との戦いの総称。 |